シューベルトぶつぶつ記
Schubert in den Himmel.

天国でシューベルトが何やらぶつぶつ言っています。

断然おもしろい!このところの古典派演奏
クラシック音楽の民族音楽化


[20世紀のシューベルトは誰?] 聞き手:Wilhelm 08.5.18

W: シューベルトさんお元気そうで・・。
S: ああ、天国で心穏やかに過ごしているよ。下界で音楽がどんな風に発展しているかを見て回るのは何よりもの楽しみだ。
W: そうですか。あなたの音楽は特別なものだと、この21世紀でもますます価値が増すばかりです。人間の心のごくささやかな動きまでを繊細に音に表現し得たのは、あなたとモーツァルトだけだと誰しもが認めるところですよ。
S: それはうれしいことを。いやしかし、シューマンだってメンデルスゾーンだって素晴らしいではないか。
W: ええ、彼らも詩人の心をもったすばらしい作曲家ですね。
 ところで、我々も20世紀を俯瞰できるところまで来ました。20世紀の音楽シーンはどう映りましたか?
S: クラシック音楽は大衆から離れていくばかりで、人の心を無視するようになってしまった。
 ビートルズは大きな存在だ。しかし私が20世紀で一番評価している音楽家はアントニオ・カルロス・ジョビンだよ。
W: ボサノバの創設に関わったブラジル人ですか?
S: ジャンル分けにたいした意味合いはないだろう。ブラジルに脈々と流れていたサンバなど、多人種混合によってできた文化は彼の大きな下地になっている。A.C.ジョビンはボサノバ誕生以前にも素晴らしい歌曲をたくさんつくっているのだぞ。
 "Chega de saudade"「悲しみと憂鬱が、自己をコントロール不能にする〜でも彼が戻ってくるのなら」・・ここの和声の移ろいを聴いてみるといい。雲間の晴れ間が次第に広がっていくような微妙な移ろい。1小節、いや1拍ごとに気分が次第次第に変わってゆく。まるで本物の心のごときだ。"Desafinado"、"Wave"などにも絶賛を送るしかない。
 作曲テクニックを前面に出さない控えめな性格。自然で口ずさみやすいメロディー。和声進行は絶妙ながら決して嫌みにならない。
 モーツァルトも確かにそうだ。シンプルで誰にでも真似ができそうだが、そうはいかないぞ。天才にしかできない曲づくりだ。楽曲の中で心をどんな深めていっても聴くものに不快感を決して与えないことも私を含めた3人の共通点だろう。
「20世紀のシューベルト」とアントニオ・カルロス・ジョビンを呼ぶ人もいるそうだが、私もそれには賛成だし光栄だとも思っているよ。
 私は、ミュラーやレルシュタープの詩を得たことにより、楽曲に真の魂を宿らせることができた。A.C.ジョビンにはヴィニシウス・ヂ・モラエスという素晴らしい詩人がいた。人生経験豊かな詩人と個人的に知りあえ、触発しあえたというのはうらやましい話だ。「イパネマの娘」だって実在の娘を想ってふたりで書いたと言うではないか。
W: やはり詩は重要ですか。
S: 重要どころではない。「全て」だ。ゲーテ、リュッケルトなしでどんな曲を書けというのだ。
W: あなたがハイネの詩につけた6曲はかなり特別。人智知れぬ心の底から宇宙のかなたに抜け出たような作品ですが、やはり相当共感されたのですか?
S: う、死ぬのが早過ぎた。シューマンがうらやましい。ハイネと私は深いところで共感しあえたはずだ・・・
W: ああ、もう行っちゃうのですか〜?

[魂あってこそ] 聞き手:Wilhelm 08.5.21

W: 地上では今もって盛んにあなたの曲が歌われたり演奏されていますが、シューベルトの演奏も時代と共に随分と変遷してきていると思います。
S: 自分でも忘却のかなたにあるような曲が発掘され、ますます歌われ演奏されている。これは自分でも思いもよらなかったことで戸惑いを覚えるぐらいだ。楽譜の出版もほぼ残らずなされ、近年ではクリティカルエディションと称して、私の決してきれいとはいえない筆の研究から、校訂者の先入観のない、私のイメージした本来の音が次々と甦っておる。
 例えば未完成交響曲第1楽章提示部から冒頭に戻る1小節前だが、かつて出版された際、ただの属七の和音にされてしまいすっかり定着してしまっていた。だが私は意識的にsiをタイにしたのだ。ベーレンライター社の新版でようやく陽の目を見たと喜んでいるよ。
W: そういったクリティカルエディションの出版に伴い、当時の楽器、奏法を目指す演奏家がこれまでとは異なる響きでシンフォニーを奏でています。
S: ああ、刺激的な金管楽器群、はっきりとしたアーティキュレーション、快活なテンポ。特に初期のシンフォニーはこれらの演奏家によって「再生した」という表現を使ってもいいだろう。バロックや古典派の演奏で培った演奏法の応用による新アプローチのシンフォニーだ。
W: それではこれらの新しい演奏を歓迎なさっているわけですね?
S: いやそうとも言い切れない。気になることもあるのだ。
 こういったアーティキュレーションのキレにより楽曲に運動性が生まれたのは確かだ。だが、次々と「こんな工夫もある」と生み出されてくる演奏の中には、やり過ぎから、少なからず珍妙奇怪と感ぜざるを得ないものもある。おまけに、そういった演奏自体が惰性化しつつある今日、最も大切な、新鮮さや感動力がなくなりつつあると指摘したいのだ。
 表面的なテクニックや音楽表現は私の音楽には無縁だ。感じ、感動する心、心の機微を表現する情熱だけが求められる。
W: 研究が即、本物の演奏とは結びつかないということなのですね。
S: そうだよ。ピアノトリオでいえば、カザルス、ティボー、コルトー。もしくはハイフェッツ、フォイアーマン、ルービンシュテイン。亡くなった人ばかりだが、彼らは私の音楽の神髄を表現してくれた。人間的にも経験豊かで大きな人物たちだった。ピアノのシュナーベルやE.フィッシャー。特に策を錬るでもなし、しかし譜はよく読まれている。オーソドックスなのに個性的。陳腐さとは無縁な王道の演奏だ。
「本物の演奏」なんていうことに重きを置く必要はないと思っている。だがあえて言えば、魂のこもった演奏こそが本物なのだ。

[材質が物語るもの] 聞き手:Wilhelm 10.4.12

W: 前回のお話ではシューベルトさんも往年の巨匠たちの演奏に価値を見出されているということでしたが、熱いクラシック音楽ファンの間では、SP時代の演奏に重きを置いている人は少なくないのですよ。
S: それはそうであろう。一般的に言えるかどうかは分からんが、現代の演奏と戦前の演奏では大きな違いがあるのは確かだ。
W: 具体的なお話を聞くことはできますか?
S: そうだな、非常に瑣末なことだが...。
W: 音楽に関わることならば。
S: 瑣末だが、そこには時代の空気に感化されて変化してきた、聴衆がクラシック音楽に求めるものの変遷が反映されているように思う。時代を経るに従い失われたそういった良きものは色々あるのだが、今日は管楽器の材質に注目して考えてみようではないか。
W: 管楽器の材質ですか?というと、昔は木製だったフルートが金属になってしまったとか...。
S: まあ、今日はオリジナル楽器と現代楽器の違いはおいておこう。
そのフルートだが、実際に今オーケストラで使われることの多い24K製のフルートはいくらするか知っているか?
W: 総金製、そんなフルートがあるのですか?
S: ああ、ほとんどが金属の値段ということになるが900万円を超えるものがあるぞ。
W: [絶句]・・・も、もちろんいい音がするのですよね。
S: そこなんだ問題は!金は値段も高いが重さも相当。750g程ある。当然音質にもその重さは影響する。しっかりとした豊かな響きは大オーケストラの中で確かに求められるものかもしれない。つんざくような鋭さやタンギングの耳障りな感じも軽減されるということもできる。しかし他の木管楽器からひとり際立つその響きはアンサンブルをする上でどうなのだろうか。唯我独尊という言葉が頭をよぎる。
W: それでは銀製フルートの方がよいのですか?
S: ああ、銀はいい材質だ。音質も明るく柔らかく。アムステルダム・コンセルトヘボウ・オーケストラのフルートセクションは銀製のフルートを使っているが、他の木管楽器と溶け合うすばらしいハーモニーはフルートの良心的ともいえる響きづくりが大きく作用しているように思うぞ。
W: シューベルトさんの交響曲には確かに重い響きは似合いませんね。それでは、フルートにとって最も優れた材質は、
S: 洋白だ!金管楽器の真鍮と似た成分でつくられている管楽器の基本となる材質、銅と亜鉛とニッケルによる合金だ。洋白製のフルートは400g程しかない。軽くて華やか、反応がよい。フルート本来の響きは洋白製の楽器により得られるものと信じている。
そうだ、金属にこだわっていたので「洋白だ!」、と叫んでしまったが、もちろん私の作品には木製の、現在の直管ではなく錐管(先に行くほど細くなる)でつくられたフルートが似合う。しかし洋白製のフルートは、最もその木製のフルートに近い響きがするのだ。爽やかな朝に鳴く小鳥のような、フルートのイメージそのものだ。
巨匠マルセル・モイーズを知っているか?彼は終生洋白製の楽器を使っていたぞ。ジャズメンにもその正直な音色が愛されている。それにアドルフ・サックスやベームがつくっていた、いわゆるオリジナル・フルートは全て洋白でつくられている。
W: そんなによい材質の楽器ならば値段が気になりますが...。
S: ふ、数万円で買えるものだよ。
W: 金属といえば金管楽器にもそのような話はありますか?
S: 金管楽器...。Brass Instrument。Brassyという言葉があろう。辞書をひけばネガティブな言葉が並んでおる。しかし金管の響きも随分と上等になったものだ。暖かで上質でまろやかな甘い響き。
しかし本来金管楽器に求められる働きを忘れてもらっては困る。作品から芯が抜け、力強い響きが失われてしまう。
W: もしかして金管楽器にも材質の変遷などがあるのでしょうか?
S: ああ。そこには、ここ数十年の世界的なオーケストラサウンドに対する価値観の変化が現れていて、ただ材質の変遷うんぬんだけの話ではないおもしろいものがあるぞ。
今のオーケストラの金管楽器はみんなピカピカ輝いているだろう。あれはラッカーで表面を仕上げてあるためなんだ。真鍮むき出しでは、錆びてくすんだ輝きになってしまう。
W: 昔はラッカー加工がなされていなかったとか?
S: その通り。20年前のオーケストラの写真などを見て欲しい。大概のホルンはノーラッカーだ。ノーラッカーでも毎日丁寧に布で磨き続けるとかなり輝きが保てるので写真で見分けるのは難しいのだが、世界的にプロはラッカー処理をされたホルンを使っていなかった。更にそれから20年遡って欲しい。もう白黒写真になってしまうが、戦中戦後はトランペットもチューバもラッカーがかかってなかった。
W: そのラッカーのある無しは音質に影響があるのですか?
S: ああ、例えば1963年録音のCarl Schuricht, Wiener PhilharmonikerのBruckner#8でも聴いてみるがよい。特に強奏時の金管楽器群のスカッとする音の割れ具合はどうだ。しかもこれだけ管を振動させて吹いているのに、その音質は弦や木管を包みすぎてしまうことがない。オーケストラの中で共存できる響きなのだ。また音域による個性も強烈で、弱奏から強奏までの音色のパレットは実に豊か。ホルンは細い唄口から大きなベルに向かって、その真鍮全てを鳴らすことにより生み出される表情にはとても大きなものがあったのだよ。
W: ラッカーがついているとどんな響きになるのですか?
S: 真鍮の振動が抑えられ、管の振動度合いが少なくなってしまう。強奏しても音は開かず割れない。くぐもった響きになってしまうのだ。
W: しかし心地よさは失われず、音は甘さのある豊かな響き。
S: 質感もずっと増すな。ラッカーつきの楽器の利点をあげることももちろんできる。
W: しかし、その変化はクラシック音楽に求められる響きの変遷を表していると。
S: うん。物語っておる。刺激の抑制された上質なまろやかは響き。最近できるコンサートホールの響きの設計などにもそういった時代性が反映されている。オーケストラは全体の響きで楽しまれるようになってきているな。
W: ところで楽器はこれからも改良が加えられていくのでしょうか。
S: 各管楽器ともこれからも新製品が出てゆくのだろう。しかし弦楽器は基本的にバロック時代からマイナーチェンジが繰り返されつつも、大きく変わってきていないというのに管楽器だけがどんどん進化してどうなるものなのか。
18世紀の偉大な木管楽器メーカー、ドイツのデンナー、ベルギーのロッテンブルク、イギリスのスティンズビーなどは、フルート、オーボエ、ファゴット、またクラリネットと全ての木管楽器をひとつの工房で製作していた。各楽器の倍音(響きの性質)を考えながらトータルな響きがどうなるのかを念頭に製作していたのだ。現代は各楽器メーカーが独自に(勝手に)楽器を進化させてゆくので、管楽器全体の響きがどうなるかということがほとんど考慮されていない。これについては問題提起をせざるを得ない。
最後に付け加えるが、洋白製のフルートや、ノーラッカーの金管楽器で、響きのパレット豊かに演奏するのは非常に鍛練のいることでもあるんだ。さらに強調しておきたいのは、ブラームスはおろか、ラヴェルでさえ、金製や銀製のフルート、ラッカー付きの金管楽器の音はその頭の中でイメージされていたことはなかったということだ。戦後に出現した新素材による楽器の音がはたして真実を伝えるものなのか、立ち止まって考えてみてほしいのだ。

 

[断然おもしろい!このところの古典派演奏] 聞き手:Wilhelm 12.3.24改訂

W:先日ラジオでC.アバドのブランデンブルク協奏曲第5番が流れていたのですが、その現代的なスマートな演奏にびっくりしました。近年、バッハ演奏は、研究と技術の水準が上がった古楽系演奏家の専門となってしまい、現代の楽器を用いる既存のオーケストラのレパートリーからは外れてしまった感がありましたが、アバドがこんな演奏で切り返してくるとは、これはセンセーショナルな出来事と言えるのではないでしょうか。
S: 現在の演奏家のカテゴリーを、「モダン楽器派」と「古楽器派」と二分するのは時代遅れじゃ。"HIP"という略語を知っているか?"Historically Informed Performance"と言ってな、いわば「楽器は問わず、しかし古典派やバロックの語り口には通じている演奏法」という意味だ。
 N.アーノンクールやJ.E.ガーディナーなどは1990年頃まで、手兵の合奏団と細々と活動していただけで、一部の古楽ファンにその名を知られる程度であった。その後、彼らが積み上げてきた仕事が大きく評価され、今では世界的なマエストロと尊敬されるようになった。S.ラトルやD.ハーディングなどに与えた影響は大きく、それら後継者たちが、ドイツの既存のオーケストラの価値観を大きく変化させたのだ。伝統を誇るベルリンフィルのここ30年の変化には目を見張るものがあるだろう。また、既存のオーケストラでは表現できないもどかしさから、「ヨーロッパ室内管弦楽団」や「ドイツ・カンマー・フィルハーモニー・ブレーメン」などの実力ある若くしなやかなオーケストラも生まれてきたな。そして、C.アバドのようなかつてからの巨匠も大きく変身しているのだ。君が聴いたのはこの演奏だろう。
http://www.youtube.com/watch?v=XBw6wwa7eC8
 ここでの演奏家は、モダン楽器の世界でも名があり、HIPの感覚を備えている者たちばかりだ。
 アバドの指揮、G.カルミニョーラのヴァイオリンでこんな演奏もあるぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=jbkVlYH0WoQ
 このバランス感覚の優れた、モーツァルトの魂を伝えてくれる演奏には、どちらの方面からも賞賛の言葉が送られるであろう。

 特に近年、大変身、大変革を遂げているのが古典派作品へのアプローチだ。
 現代に生きるクラシック音楽の演奏家は、好むと好まざるに関わらず、全員がHIPのセンスを備えていなければならない。
 だが、そうは言っても難しい点があるのも確かだ。彼らがコンセルヴァトワール(音楽大学)で学んだ時代にはなかった概念がHIPには多く含まれているのだ。HIPのセンスというのは、実はちょっと工夫して簡単に得られるものではない。全ての音を優劣なく均等に演奏することが求められ、ソルフェージュ通りに演奏して高得点をもらっていた彼らの学生時代の価値観からの大転換が求められるのだから、従来の価値観にこだわり保守しようという頭にHIPの概念を刷り込むのは大変なことではあるのだ。
 しかし、本場の既存のオーケストラは動いているぞ。HIPの感性を備えた指揮者の元、謙虚に古典派演奏を学んで大きな成果を上げておる。大きな山がぐおーと自ら動いているような壮観な図だ。ここでいくつか紹介していこう!

 R.ノリントンも古楽演奏の旗手だが、「シュトットガルト放送交響楽団」はノリントンと、ハイドンのザロモン交響曲全集を出して大きな話題を呼んだ。ノリントンの目指すピュアートーン、木管楽器と弦楽器の抑えられたヴィブラートは、かつてのドイツ人が演奏していたスタイルと大きく異なる奏法だ。ここではトランペットとティンパニーが古楽器を使用している(どうしてホルン奏者は追随しないのだ!)。
http://www.youtube.com/watch?v=MGh9q2rQlu8

 名門「チューリッヒ・トーンハレ」は、D.ジンマンを迎えた。ここではホルンも(ちゃんと)ナチュラル管を使っている。「チューリッヒ・トーンハレ」はジンマンと共に、この演奏で完全にかつての人気を取り戻したのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=NQOFNAai388

 金管楽器とティンパニーだけを、ピリオド楽器であるナチュラル管に持ち替えて古典派作品を演奏するスタイルは今、大流行しておる。その演奏からは今まで気がつかなかった刺激的な作品本来の姿が浮き彫りになるのだ。
 「南西ドイツオーケストラ」のモーツァルト。またトーマス・ファイ率いる「ハイデルベルク交響楽団」のハイドンを聴いてみてくれたまえ。弦楽器と木管楽器に現代楽器使用、という情報に目を疑うぐらい、その演奏はピリオド楽器を用いたものに果てしなく近づいている。金管楽器には音楽を牽引する役割が与えられている。かつての古典派演奏における金管楽器は、後ろの方で虚ろに和音を響かせているだけだった。モーツァルトやハイドンがそんな無駄な楽器使いをするわけがなかろう。この「ハイデルベルク交響楽団」の演奏は、全ての楽器が躍動感に満ち、100%鳴っている。作品は生命力に輝き、聴く者を心から満足させる演奏だ。彼らは今、ハイドン交響曲全集に取り組んでいるという。私は心から応援しておるよ。
http://www.youtube.com/watch?v=nZ9ZTaX4hmI

 さらに驚くべくこの動画を見てくれ!G.ヴァントの元、かつて最もドイツらしいオーケストラと言われていた、「北ドイツ放送交響楽団」の画像だ。信じられるか!コンサートマスターの弓はバロックボウだ!金管楽器はナチュラル管を使っている。そしてこの演奏。古楽器集団の演奏に比べたら木管楽器に中途半端なヴィブラートがかかっていることなどまだまだ甘いところがあるとはいえ、かつての「北ドイツ放送交響楽団」の演奏を知っている者ならば、これを聴いて驚きを禁じ得ないだろう。指揮はフライブルガー・バロックオーケストラを若い頃に立ち上げた、トーマス・ヘンゲルブロックだ!
http://www.youtube.com/watch?v=5JUWACFsskk

 さらにさらにまだ驚くべき動画があるぞ!これが「ベルリンフィル」の演奏だと信じられるか!よくもこんなジャラジャラした音でベルリンフィルの弦楽器奏者たちが弾けるものだ。指揮者は一昔前、鮮烈なヴィヴァルディの演奏で世界を湧かせた、"Il Giardino Armonico"のリーダー兼リコーダー奏者のG.アントニーニとくるから、これが現実のものかと目を疑う!
http://www.youtube.com/watch?v=ODXLf8XVRTI

 ヨーロッパでは、今こういった演奏で、ハイドンやモーツァルトやC.Ph.E.バッハが、堂々と定期公演のトリとして演奏されている!
 どうだ、完全にHIPの精神がほぼ全楽員に行き渡っているだろう。ヨーロッパのオーケストラの現状はこうだ。

W:ところで、古楽器を用いて演奏している諸団体もヨーロッパでは元気ですよね。彼らはこの時代にあってどのような活動をしているのですか?
S:モダンオーケストラが脱皮して、新しい演奏を聴かせるようになってきているといっても、ピリオド楽器にこだわる価値はあるし、彼らの活動は、古典派演奏のスタイルを常に刷新、そして今でもこういった動きの牽引役として期待されている。今、古楽シーンが一番おもしろいのはフランスだ。ここでは若い団体をひとつ紹介しよう。こんなおもしろハイドン、なかなかできないだろう。"Le Cercle de l'Harmonie"という団体だ。
http://www.youtube.com/watch?v=slS_00d4Jg4

フランスでは今や啓蒙済みの全てのミュージシャンが、古楽器・モダン楽器の垣根を超えて活躍している。いや、垣根はもはや無いといってもいいだろう。ソリストとして名の知られているチェロ奏者のジャン=ギアン・ケラスは裸ガット弦のチェロに持ち替えてこんなハイドンを録音しているぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=YYmIQvAYfRE

そして、ぜひとも紹介したいのは、フランソワ・グサヴィエ・ロトの指揮する「レ・シエクル」の演奏だ。ここではストラヴィンスキーの「火の鳥」が当時の楽器で演奏されている。演奏者は「ラディオ・フランス」などで活躍する気鋭の集まりだ。この演奏を聴いてもらって分かる通り、ただ当時の楽器に持ち替えて上っ面を演奏しているだけではない、フランスが失った響きもここでは取り戻されている。彼らのサン=サーンスのCDを聴いたが、低弦の裸ガット弦ならではの響き、バソンやトロンボーンの細管の響きにサン=サーンスの芳醇な響きが強烈なエスプリと共に蘇るのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=-Cw_D0VHcYk

W:本当に古典派の演奏には、今や一大ブームと言ってもいいぐらいホットなものがあるのですね。私も興奮してきました。ところで、日本に住む私としては、日本の状況も気になるのですが。どんなものなのでしょうか。

S: うむ、近衛秀麿の時代から、西洋音楽を積極的に取り入れて来た日本だが、どうだ、すさまじい勢いで興味深い作品が発掘され、こんなおもしろい演奏が日々生まれ出ている西洋の状況に、日本の今日の演奏家は、ほとんどついていけていないように思える。だが、この2,3年、新しい動きも起っている。古楽器によるオーケストラ団体も少しずつ演奏会を増やしている。色々な考えをもつ奏者の集まりである既存のオーケストラに機敏な動きを期待するのはなかなか難しい。だが、こんなヨーロッパの動きを知りながら何も感じない程、日本人もとろいわけではない。
 例を挙げてみよう。「新日本フィルハーモニー交響楽団」は、昔からボッセの元、ハイドン全集に取り組んだり、古典派演奏の下地のあるオーケストラだが、F.ブリュッヘンを呼んでベートーヴェン全曲チクルスをしたのには驚かされた。また先日はスピノジというバロックバイオリンの奇才を指揮者に迎えてハイドンを演奏したが、そのハイセンスな演奏に舌を巻いた。彼らにとってはHIPが既に常識になりつつある。また「山形交響楽団」は、日本の常設プロオーケストラの中で最初に金管楽器をナチュラル管に替えて古典派演奏に取り組み始めた、また現在でもナチュラル管を用いて演奏する唯一の団体だ。5年前からモーツァルト全曲シリーズに取り組んでいるが、飯森範親の的確な助言の元、その演奏レベルは世界に問える程高い。ベートーヴェンやシューマンでもナチュラル管を揃え、練習に時間をかけて価値のある仕事をしている。「NHK交響楽団」もまた、R.ノリントンとの古典派チクルスを、楽員自体が積極的に楽しみながら行っている。他にも「オーケストラ・アンサンブル金沢」が今度M.ミンコフスキーを迎えるぞ。これは楽しみだ。
 日本のオーケストラにも徐々にではあるが、啓蒙の光が当たり始めているようだ。期待しよう。

[クラシック音楽の民族音楽化] 聞き手:Wilhelm 13.6.21

W:シューベルトさん、お久しぶりです。最近の地上の歌手たちはどうですか?
S:う~む、ドイツリートの世界はかなりの活況を呈しているな。正直、おもしろい。今から振り返ると一昔前のリートの世界は、歌い方のマニュアルのようなものが出来てしまって、そこに真実は含まれているとはいえ、リートのドイツ語はこう!とあまりに画一的になってしまっていたように思う。まあ、それによって、ドイツ語を母国語としない人たちにも広く歌われるようになり、ドイツリートがインターナショナルに受け入れられたわけで、「リートのための画一的なドイツ語」にも、一定の役割はあったのだが…。
W:当時はLPレコードの時代で、限られた一部の権威のある人たちの歌を皆が真似た、という面もあるかもしれませんね。
S:確かに、様々な個性豊かなリート歌いが各々に活躍していたなら、違ったかもしれないね。
W:しかし、当時は(権威ある)ドイツ人以外の歌手が大手を振って歌えるような、またそれを許容するような余裕もなかったように思います。
S:そんなドイツリートの一種停滞していた状況に穴を開けたのはイギリス人だったかな。
W:イアン・ボストリッジですね!
http://www.youtube.com/watch?v=mmx4MN3xZpM
S:このドラマ性、歌というよりも義太夫のようなドラマティックな歌い方に私も感動したな。
W:彼の歌い方はバロック声楽の影響もあるように思います。
S:バロックの世界でのキャリアからスタートしたプレガルディエンのドイツリートもいいではないか。歌うよりも語ることを重視したアプローチは、詩の世界の多様性を知らしめてくれた。
W:彼と同時期に堰を切るように個性的なリート歌手が出てきました。ドイツ人たちも目覚めたようです。
例えばヴェルナー・ギュラ。
http://www.youtube.com/watch?v=ZSKRZ-w5KQM
S:語りの要素が断然増えた。そしてこのドイツ語の濃さ、多彩さはどうだ。
私はもちろん、優れた詩から霊感を得て、詩のもつメロディー、リズムを感じながら、宇宙と一体となってリートを書いたつもりだが、そうは言っても、私が住んでいたウィーンという街で、仲間たちの顔を思い浮かべながら作曲していたわけだから、ウィーンのドイツ語の語り口や語法などが歌う際にもしっくりくることは否めない。
W:ということは、(ウィーンという街の)民族音楽的な要素もあるということですか?
S:私だって、全地球を意識して作曲していたわけではないからな。ビーダーマイヤーの作曲家なんて言われるのも悔しいが、でも確かにグローバルを意識していたわけではない。
W:戦後のクラシック音楽は、全世界に開かれました。それまで各国それぞれの性格が色濃く出ていたオーケストラのサウンドも、その後、すっかり均質化してしまい、今日、音だけでどこの国のオーケストラかを判断するのは難しくなりました。
S:かつては、ホルンやオーボエは楽器自体もお国柄が反映されていたから、それぞれの国の個性がはっきりしておったよの~。
W:今はどこの国のファゴットセクションも大概ヘッケルを使ってますからね。
かたやそのようなグローバル化の動きがある中で、ドイツリートやバロック音楽のような特に私的な音楽では、作曲された国、もしくは地方のみに限定されるような、つまり「これは民族音楽か!」と見間違うような演奏に出会うようになってきました。前出のヴェルナー・ギュラのドイツ語も、いわゆるリート・ドイツ語ではなく、ドイツ人でなければ発音するのが難しい、濃いドイツ語ですよね。
S:ドミニク・ヴェルナーのドイツ語も素晴らしい。母国語だから当然かもしれないが、自由自在にドイツ語を操っている感じだ。行間ばかりか単語のアルファベートの間にも存分な表現が満ちているというか…。今後、その民族じゃなければ演奏できない、というような、いわゆる血の濃い「民族音楽」的な、地方色の濃い演奏がどんどん出てくるようになるだろう。器楽の演奏でも、こんな演奏など、まさにヴェネツィアの民族音楽とは言えないか?
http://www.youtube.com/watch?v=A9QQQ0CU3CE
W:おー、確かにこれをゲルマン人にしてみろ、と言っても難しそうですね。
S:さざ波のように面白い演奏がたくさん出て来ているぞ。イタリアの演奏家、イタリアのチェンバロメーカー、イタリアのレコード会社によるイタリア人作曲家の演奏。その民族色の濃い演奏に、D.スカルラッティの本物の響きが蘇った喜びを覚えるのは私だけではないだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=9DtTtUZ3nh0
実は、オーケストラにも「民族音楽化」の波は届いている。さあ、さざ波が大波になる日も近そうだな。
http://www.youtube.com/watch?v=9jyqw-fN1M8